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1938 ウクライナ・ハリコフに生まれる
ベルリン、ハリコフ在住
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ボリス・ミハイロフ インタビュー
インタビュー・構成=竹内万里子
通訳=ヴァレーリー・ルィブキン
現在、旧ソ連出身のアーティストとして、イリヤ・カバコフと並んで最も世界的な評価を得ているのがボリス・ミハイロフである。70年代に独学で写真を始め、当時の体制的なイメージに対する辛辣な視点をもちつつ、悲劇的かつ喜劇的に一般庶民の姿を撮影してきた。写真でしかあり得ない強烈なリアリティと猥雑な〈生〉へのまなざしに貫かれたその作品は、91年の旧ソ連崩壊後世界的に一気にブレイクし、いまだその勢いはとどまるところを知らない。これまでの歩みと写真への思いについて、来日した本人に聞いた。
旧ソ連の体制下でスタートした激動の写真人生
——どのようにして写真を始められたのですか?
「私が写真を始めたのは比較的遅いほうで、初めてカメラを手にしたのは28歳のときです。最初、ガールフレンドがタバコをくわえている姿を撮ったんです。でも旧ソ連では当時、タバコをくわえた女性を撮ることは禁止されていました。女性というのは必ず理想的な、白樺の側に佇んでいるような美しい姿でなくてはいけなかったからです。ところが私はタバコをくわえた女性の写真を撮ってみて、もしかすると写真というのはなにか普通ではない、非常に面白いものなのではないかと気づいてしまったんです」
——そのときはまだ工場でエンジニアとして働いていたんですよね?
「ええ。当時のガールフレンドが非常に自由な人だったので、いろいろ撮影させてもらえたのはすごくラッキーでしたね。しかし結局、ヌード写真を撮ったことが職場でばれてしまって、ネガを没収され、職場をクビになってしまいました。つまり、私は女性のせいで苦労したんですよ(笑)。それで本格的に写真を撮るようになりました」
——たとえば「レッド・シリーズ」(1968〜75)などの初期作品では、特に旧ソ連の体制的な美のありかたを批判するような視点がみられますが、カメラを手にする前からそうしたいわば社会主義リアリズムに違和感をもっていたんですか?
「エンジニアだった頃は、必ずしもそんなことはありませんでした。普段目にするのは労働者の肯定的な面を見せるイメージばかりで、他のものは一切見せられていなかったんです。しかし写真を始めてからある時点で、自分は私たちが見せられていないものを見せねばならないと、つまり個人的・社会的な真実を見せねばならないという意識が芽生えたんです」
——しかしだからといってミハイロフさんの作品はただ社会を風刺するだけではなく、写真独自の可能性を見出そうともしていますね。
「ええ、私の作品には二つの側面があると思います。ひとつは〈抵抗〉、つまり真実とは何か、何が実際に起きているかを知ることです。そしてもうひとつが〈美学〉です。体制側の美学というのは、非常に狭く限られたものにすぎません。ですから私は自分自身で新たな方法を作り出すだけでなく、それによって世界に対する新たな態度を見出さねばなりませんでした。そこで最初に見つけたのが、二つのスライドを重ねるという方法でした。どんな画面ができるかをあらかじめ考えるのではなくて、ランダムに二つのスライドを重ねて見せることで、幾千ものヴァリエーションを見出すことが可能になりました。この「Superimpositions」(1960年代後半〜1970年代後半)というシリーズを後になってまとめたのが、写真集『Yesterday’s Sandwich』(Phaidon)です」
——アーティストとして、当時の体制との確執はなかったのでしょうか?
「活動を隠さねばならないということはありませんでしたが、つねに圧力を感じていたのは確かです。このことを一言で説明するのは非常に難しいのですが、でも今だって、そうした圧力というものはありますよね。検閲だとか、撮ってはいけないものだとか、記録に残してはいけないものだとか。それぞれの時代にそれぞれのタブーのレベルというものがあるんですよ」
生涯の盟友となる芸術家イリヤ・カバコフとの出会い
——確かに、今の日本が自由かといわれると、決してそうではありません。一見平和にみえるからこそ、自由だと思わされてしまうカラクリがあります。時代や国が違っても、根本的な問題は変わらないわけですね。ミハイロフさんがそうした活動を続けるなかで出会った重要な仲間のひとりが、同じくウクライナ出身のアーティスト、イリヤ・カバコフ(1933〜)でしたね。
「77年か78年のことだったでしょうか、展覧会を開くためにモスクワに来ていたとき、地下鉄の中で彼が声をかけてきたんです。彼はちょうどそのときひどい鼻風邪を引いていたので、たぶん風邪を移したくて家に来いと誘ったのでしょうね(笑)。案の定、風邪を移されましたが、あのとき本当に移されてしまったのは風邪ではなくて、むしろカバコフの素晴らしい作品と彼自身だったんです」
——カバコフもあなたと同じく社会への批判的な姿勢をもって活動を続けたアーティストですが、特に彼のどの点に共感を覚えたのですか?
「何よりもまず人間的なことでした。カバコフは私にとって、おそらく最も大切な存在だと思います。それに当時私は田舎に暮らしていて、モスクワ・コンセプチュアリズムすら知らなかったのですが、モスクワにあるカバコフの自宅へ行くと、彼の作品だけではなく、それまで見たことがないような新しい芸術にたくさん接することができました。彼は非常に知的で物腰の柔らかい人物で、自分がやっていることについて確信をもつことの大切さを教えてくれました。そしてたとえすぐには理解できないとしても、お互いがやるべきことをやっていると信じ合うことができたからこそ、今日までずっと良い関係を続けられたのだと思います」
——けれどもカバコフはペレストロイカ以前に西側へ渡ってしまいましたよね。ミハイロフさんご自身は、外国の芸術をどう見ていたのでしょう。カバコフと出会ったことで外へ目が向いたということはあるのでしょうか。
「その頃はとにかくただ純粋にロシア的なものだけに興味がありました。それだけが重要だと考えていたんです。西側で何が起きているかということは、私はまったく興味がなくて、とにかく旧ソ連における生活というものをいかに作品に反映させるかということだけ考えてやっていました」
自らの目で“生”を見つめる勇気を持つこと
——作品についてもう少しお聞きしたく思います。これまで写真の彩色や、言葉との組み合わせ、演出、スナップショットなど、実に色々な方法を使われてきましたね。それぞれの方法はどのようにして決められるのでしょうか?
「方法を選ぶことに関して、原則はありません。次に何をするかということについては、自分でもまったく予測がつかないのです。毎回新しいことを模索するうちに、状況が教えてくれるというか、偶然ですね。私は自分の内面世界がなにか人とは違う特別なものだとは思っていません。ですから写真をやる際に必要なのは、写真そのものの問題と個人的な問題を区別しなければならないということだと思っています。とても困難なことではありますが、そうしたなかで写真家は写真そのものの可能性を見つけ出していかねばならないのです」
——1986年に制作された「ソルト・レイク」は、湖が明らかに汚染されていると知りながらそこで水浴びする人々を撮影したパノラマ写真でしたね。
これは庶民の生活とその特徴について語ろうとしたシリーズです。ここに写っているのは、私がそれまで目撃したなかで最も人間的でありかつ最悪な環境で休暇をとる人々なんです。そこに、このシリーズの本質があります。つまりその場所が自分たちに適しているかどうかは一切関係なく、人間がどんな場所にでも行ってしまうということ。自分がどこで過ごすかということに関して、誰かが自分の代わりに決めてくれると思い、問題があれば誰かが解決してくれると思っている状態。それがもっとひどいことになったとしても、自分では絶対にそれを変えようとはしない姿勢。それはまさに旧ソビエト的な特徴だといえるでしょう。」
——あの湖の環境はすごく身体に悪いのに、人々はそれが健康に良いと信じて泳いでいたわけですよね。
「そうです。でも当時彼らから言われたのは、もし水質を良くされてしまうと彼らにとっては悪くなる。なぜなら値段が高くなるから(笑)」
——確かに人間は、自分にとって都合の悪いことは見ても見ないふりをするものです。それが人間の基本的な姿勢でもありますよね。ウクライナのホームレスを撮った「ケース・ヒストリー」(1997−98)もまた、当時の人々がほとんど見ようとしなかった、つまり人間として認めようとしなかった存在なのではないでしょうか。
「当時のウクライナでは、ある日突然いわれもなくホームレスの状況に陥ってしまった人々が本当にたくさんいたんです。でも彼らは私にとってまだ人間であるからこそ、このシリーズが生まれました。ここで大事なのは“まだ”という言葉です。彼らはまさに安部公房の小説『箱男』を身をもって生きているのです。しかし最近は、家がないわけでもないのに金を稼ぐための職業としてホームレスを選ぶ人たちが出現しています。それはもはや別の人間であり、別の態度であり、別の関係性ですから、私はそれを見たいと思いませんけれども」
——この「ケース・ヒストリー」というタイトルにはどういう意味があるのですか?
「そこにはふたつの意味があります。ひとつは、当時旧ソ連で起きていたこと、つまり歴史に生じたケース(事例)という意味です。もうひとつは、病歴という意味です。ですからこれは、ある意味で〈旧ソ連の病歴〉といえるのかもしれません」
——旧ソ連の崩壊後、ミハイロフさんの作品は世界中で盛んに展示、出版されるようになりましたね。2000年にはハーヴァード大学の客員教授としても教鞭に立たれていますが、実際にどんなことを教えられたのですか?
「学生たちには、自分たちの生とそれを取り巻く環境に注意を向けてもらおうと努めました。彼らが自分の生を作品に反映させたつもりでいても、それは彼ら自身が生きている生ではなくて、雑誌に書かれているような生に過ぎないんです。どこかで書かれた美しい、あるいは美しくない既存のアイディアを繰り返しているなんです。だから一言で生といっても、自分自身の生を作品に反映させるように、彼らが自分自身の生をみつめ、自分自身の眼を開くことができるように努めました」
——そのようにして、まだ誰もが表現していない、見ていない現実を自ら認めるにはやはり勇気が必要だと思います。ミハイロフさんご自身は、その勇気があったから自分がここまでやってこられたと思われますか?
「それは勇気というよりは、視点の設定の問題だと思います。まず、自分自身の生というものが重要であることを、しっかり意識しなければなりません。生というのは毎日のありふれたものだけれども、きわめて重要なのだということを。そして、生というものが、美学的というよりも歴史的に重要であることを認識すべきだと思います。自分がここまでやってこられたのは、そうした生の歴史的な重要性をわかっていたからだと思っています」
(編集協力=上田洋子)
初出: 写真新世紀誌 第21号(2006年刊行) ※ボリス・ミハイロフ氏はキヤノン株式会社主催の写真コンテスト・写真新世紀の2006年度ゲスト審査員として招聘された。本テキストは、写真新世紀誌第21号に掲載されたものを、加筆・再編集したものである。

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