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| 他者のものを他者に返す |
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| 田野倉康一(たのくら・こういち 詩人) |
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不安になるわけでもなければ苛立つわけでもない。なにやら可笑しいが、滑稽ではない。むしろ馴らされてゆく。
そしてそれはおそらく、見る者も演じる者も同じだ。
それはなぜか。
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この問いを宙吊りにして、僕は作者が何を試みようとしているのか、という次なる問いへは赴かない。
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タイトル「AIWA TO ZEN」、そのバックに流れるわらべ歌風の素人くさいコーラス、「YOSHITOMO NARA」に始まる、まるで脈絡の無いコトバ、それもほとんどが固有名詞の、全体としては意味を成さないラレツ、それはガイジンが「来日前から知っていたわずかな日本語」として持ち込んだ他者の言葉だ。でも、ふしが付くとさほど苦にならない。いや、むしろ当然のように受け入れてしまっている自分にちょっと、驚く。
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ヒトがコトバを習得する時、最初に覚えるのはモノやヒトの名前だ。
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それから日本語のネイティヴスピーカー5人による自己紹介風のショット。だがそこで語られるモノローグはやはりコトバのラレツ、それは自ら発する他者のコトバだ。
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| 卓袱台を囲む5人。
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たとえば二人のサラリーマンによる名刺交換。日本じゃ見慣れた風景だが、その日常的な光景と、双方から発せられる、状況とは関係ないコトバのラレツはかえってその会話そのものではなく、日常的な光景あるいは所作自体の方に激しい異和を感じさせる。
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たとえば卓袱台を前にしたKIMONO LADYは、「BANANA YOSHIMOTO、IKEBANA、HONDA」とぼやき、「LOVE HOTEL、WASABI、UNAGI、UKIYOE−」と言って泣き、「REI KAWAKUBO、KONICHIWA、KONIKA」と怒り、「KOYANAGI―、AKIRA KUROSAWA―」と泣き崩れ、「ANIME、ARIGATO、YAMAHA―、TEPPANYAKI―」と頭をかかえ、「HONDA、IKEBANA、HOKUSAI―」と再び怒り、また「NAGASAKI―」と泣き崩れる。
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コトバが文脈にも統辞法にもよらずに発せられるメカニズムがまずはあらわになるだろう。BANANA YOSHIMOTOで始まる一群の語彙は、BA→RA→DAと、濁音をともなうア行の音によって連鎖し、LOVE HOTELで始まる一群は、LOVEの「VE」が日本語に置き換えられるとしばしば「BU」に置き換わるという事実を考えれば、V音からB音が導かれ、以下BI→GI→KIとやはり音の連鎖によって語がつむぎだされてゆく。
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ここで面白いのは、このようにつむぎだされた言葉が、語のひとつひとつの意味内容とはかかわりなく、つまり話し手の意思とは関係なく、それぞれこのKIMONO LADYの豊かな感情の起伏に、おそらくは語感によって対応していることである。
「テッパンヤキィー」の「キィー」、「ウキヨエェー」の「ェー」、「ナガサキィー」の「キィー」、この語感が泣き崩れる所作あるいは状態に対応している。怒っているときに発せられる語には濁音が入る。たとえば「カワクボ」、「ホンダ」、「イケバナ」のごとく。
ここでは語感と感情の関係があらわになる。
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他者の言葉は話し手の内側へと同化してゆくのだろうか。
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場面の間に入る字幕は必ずしも情景を説明しない。たとえば「しかし言葉が単純であったことはない」と文字で示されていても場面は窓の棚に座ったBUNNY-CHANと、卓袱台の向こう側に座ったSALARYMAN、SUPER SALARYMANとのやりとり、「SONY、SUMO、KARAOKE、KARATE、TOKYO、TOMIO KOYAMA」とSALARYMANが言えば、BUNNY-CHANがちょっとしゃがれたような声で「YAMAHA」と言って、でっかい着ぐるみの手でSALARYMANの頭をはたく。見ている方はその字幕を「そうかもしれないけど関係ない」と当然思う。
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たとえば「彼らの関係は、しばしば疑われる」と言われて、情景はBUNNY-CHANとSUPER SALARYMANが「おちゃらかほい」の要領でYOKO ONO、YAKITORIと言い交わす。情景は仲良さげで、字幕と矛盾しない。なのに情景と言葉はめいいっぱい齟齬をきたしている。
それにしても発語はシナリオによっているのか、演者の思いつきなのか、その取り出され方に韻を踏むもの、調子によるものが出てくる。これは詩の生成を指し示しているのか、冒頭の、節回しの問題とリンクするのか。
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たとえば5人そろって卓袱台を囲んでいる。そこでおもわずふき出してしまうSALARYMANは、単に面白い映像であるが、これはまさに全体の流れに対する齟齬である。これは、ガイジンが持ち込んだ他者の言葉とそこにいるネイティヴスピーカー5人の所作、発語との齟齬にパラレルなのだろうか。
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「世界」がザラザラしてくる。
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He suspected they had spoken ill of him. あたりになると、この字幕が情景をそのような「意味」の方向へ見る者をひっぱる。話されているのは相変わらず語の羅列なのに、見る者はそんな気がしてしまう。
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あるいはOnce word got out…と語られる情景はいわゆる伝言ゲームだが、コトバは発せられた瞬間から誤解と曲解にさらされるという言語における社会関係の本質的な問題を思いっきり肥大させて見せている、と曲解してみせることもできる。
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こうしてコトバがいつのまにか、意味からも、文脈からも、そして母国からも解き放たれる。つまりコトバが、日常的なコトバの用法による束縛も、「日本」、あるいは「日本語」というカテゴリーの束縛からも解き放たれて、寄る辺ない、意味と無意味の深淵を漂う。これはこわい。だがここには意外にも不安はない。不安ではない奇妙な不安定、ひょっとすると美術家には親しいこの奇妙な不安定は時に、新たな創造への動線にもなるのだ。
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5人が単純な儀式、慣例に慰めを求めるというのも、この不安定をある定式の中に繰り込んで、まるごと安定させようとしたのではなか、との深読みも可能だ。
ともかく呈示されるのが日常的な光景であるだけに語られるコトバの他者性、その非日常、しかもその非日常的言語は本来のコミュニケーション手段として必須の言語としての系を持たず、つまり文にすらならず、ただ断片としての語が切れ切れに発せられる。
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しかもガイジンの素朴な日本語という事実に引っ張られてか、イントネーションも日本語のネイティヴスピーカーのそれではなく、むしろ英語のイントネーションに近い。
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国籍不明の、コトバ自体の意味はわかるのに、全体としては意味を成さない。つまり情景と文脈(非文脈)、そして発話と意味内容のズレあるいは齟齬という二重のズレ(齟齬)にさらされ、そこで「世界」はもはや空気のようにそこにあるのではなく、ザラザラした、半ば可視化され、可触化された何物かとして見る者の前に立ち現れる。おそらくここが「美術」なのだろう。
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そう、コトバは何よりも「世界」そのものなのだから、そしてこのこと自体もまたここに可視化されてしまうのだ。
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つまりこれを見る者も演じる者も、日常と地続きの地獄を覗き込んだ、というわけなのである。
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だが話はここで終わらない。
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ここに可視化されるあらゆる異和は、同時にそれらが結局コトバであるがゆえの根源的な性質によって、再び日常化へ向かう、いや向かわせられることになる。
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これが「習得」ということだ。
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ここに至ってこの異和に馴らされていて、共振さえしている自分に気づく。この異和は、いま、ここにおける、わずかこの12分の間に、日常になってきているのだ。
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最後に冒頭とおなじふし回しのYOSHITOMO NARAで始まるコーラスが、とても親和的な雰囲気を帯びた卓袱台を囲む5人によって歌われ、彼ら同様すっかりここに現出した小宇宙を受け入れている自分に気づき驚く。
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この「物語」に、JAPANESE SAGAと副題がつけられているのもイミシンだ。
SAGAすなわち英雄的叙事詩とは実のところ、おびただしい日常と、その日常からの解放、つまりは日常とそこに対する異和との総体であり、しかも往々にして他言語の流入によって活性化した「世界」と日常との同化へと至る夥しい日常的事象の、つまりは日常的な言語の束にほかならず、その過程とは結局、常に内なる他者の発見にほかならないからである。
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他者の言葉は内なる他者へと返ってゆく。
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かくして、「私たちはずうっと、しあわせなのだ」。
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| 田野倉康一(たのくら・こういち 詩人) |
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