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| 「死よりも生を」と美術館は叫べるか |
| ――クリスチャン・ボルタンスキーと小林正人―― |
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| 保坂 健二朗 |
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| 表現の自由って本当に無責任で、時代遅れの言葉だと思う。アーティストは愛を語る人ではなく、愛そのものでなければならない。そしてそのために払わなければならない代償もはかりしれない。 |
古橋悌二、「古橋悌二の新しい人生 ―Life with Virus HIV感染発表を祝って」※1
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| 美術館=墓所説からの脱却 |
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「美術館(Museum)」と「霊廟(Mausoleum)」の発音上の類似に基づき、美術館を芸術作品の墓所と呼んだのはアドルノであった。その説に呪縛された者は、美術に対して自分は良心的であろうと決意して、美術館を批判し、否定し、ときには嫌うようにさえなる。美術館からの逸脱が、美術館の脱構築が提唱される。54軒もの一般住宅を展示スペースにして展覧会を組織したヤン・フートによる「友達の部屋Chambres d’Amis」(ゲント、1986年)が逸脱の例として、またハンス・ハーケのキュレーションにより展示スペースに収蔵庫を出現させた「見解の問題AnsichtsSachen」展(ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館、1999年)が脱構築の例としてよく知られているだろう。
一方、美術に奉仕してきたにも拘らず、その寛容さゆえに批判の対象となってしまった美術館は、周囲の態度変化に、当然とまどい、そして自らもまた様々に取りつくろうだろう――展覧会を贈与のシステムの中にほうりこむ、投票という他者の価値基準を取りこむ、アウトリーチ活動をはじめてみる等々。しかし、美術館を墓所ならぬ何かにしようとするその出口なき行為は、徹底的な自発性と明確な方向性に欠けるから、しばしば偽善性を指摘され、美術館は再び批判の的になる。
ここで美術館のディシプリンを確認しておきたい。本論は、誤解を恐れずに言えば、美術作品に付随するものとして美術館を捉える立場をとる。したがってディシプリンと言ってもそれは、美術館を規定する制度的・機構的原理ではなく、美術館で可能であるべき最低限の事柄を意味するが、その確認には、独創的な展示が話題を呼んだテート美術館のディレクターをつとめるニコラス・セロータの見解が参考になるはずだ。それはテートではなくグッゲンハイム美術館の所蔵品展示をめぐってなされた分析であるが、あるコレクションの購入を契機に展示を変化させた際のコンセプトを、セロータは、「並置、分析、解釈といった伝統的な美術館のディシプリンは最小限にまで切りつめられ、体験が、最重要なものとなった」点に位置づけている※2。つまり美術館は、たしかに作品解釈と分析とに基づいて展示をするべきだけれども、それらはあくまでもキュレーションのディシプリンでしかなく、美術館のディシプリンは、作品を契機とする、観者の感性的体験を完遂させることに求められるべきである、そういうことだろう。美術館再考の手がかりは、美術作品を仲立ちとした感性的体験を可能とする場所の検討にある※3。 |
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| 作品の生死と「距離」 |
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駆け足であるが、ここまでにおいて観者の感性的体験こそ美術館のディシプリンであるのを確認したわれわれであれば、美術館=墓所説に続いてアドルノが次のように述べているのを見逃すはずもない。「享受ということを許しているあのたしかな距離が、観る人と美術作品のあいだに介在しているところでのみ、その美術作品は生きているのか死んでいるのかという問いも浮上してくることができるのである。」※4
美術館=墓所説は、美術館すべてにおいて成立するわけではなく、「あの確かな距離」が喪失され、作品の生死すらも判断できない状況に陥ったときに唱えられる警句であったはずだ。感性論にあっては馴染みぶかい「観者」と「作品」という二項の間に「距離」という新しいファクターを措定しなければ、作品の生死を判断できないとアドルノは指摘するわけだが、それはともすれば状況に対する否定的見解に聞こえるだろう。だが、美術館が現実に墓所と化してしまった感さえある今となっては、むしろ蘇生の手がかりとなるのではないか――われわれは今、美術館空間においていかにして「距離」を回復させるかを問題にすべきなのだ。
とはいえ「距離」の問題は、さほど単純ではない。周知のように、感性的体験、とりわけ視覚的体験における対象との「距離」の研究は、美術史だけではなく思想史の領域においても、遠近法に焦点をあてながら「表象」や「投射」といった近代的概念が成立した機制を明らかにするなど、瞠目すべき成果をあげている。ユベール・ダミッシュやマーティン・ジェイの浩瀚な書物がそうした研究を代表するが、ここでは問題を拡げすぎないためにも、遠近法は「われここにあり」と解釈者が自らの立ち位置を確認するための装置だとするノリス・スミスの指摘が、感性的体験は「距離」が確保されてはじめて可能となると考えるアドルノの警句とそう遠くにはない点を見誤らないようにしつつ、感性的体験の場を物理的な美術館空間に限定して論を進めることにしよう。※5
いまや美術館の主流を占めるようになったホワイト・キューブの空間の特性は、その「無個性的な個性」にあるのと同時に、時間軸をいっさい持たないことにも指摘できる。漂白された空間の時間性は宙づりとなったまま静止しており、墓所というよりはむしろ、延命治療を延々と施す病院に近い。ホワイト・キューブの空間に立ち入るたびに違和感を覚えてしまうのは、いつかは終わる有限の時間軸を背負う人体が、静止したまま無限に存在するかのごとく装おう空間に身を置いたことに対して、半ば生理的な抵抗を示すからである。そうした空間は、ことのすべてが先送りにされているという意味で、『ゴドーを待ちながら』にでも比すべき「不条理な生」を想起させるだろう。その不条理さは、展示されている作品のうち少なくない数が、この世にいない者がかつて生み出したものであるという事実に思い至るとき、いや増しに増すにちがいない。美術館の空間、とりわけホワイト・キューブの空間は、思いのほか「生と死」の問題圏に近接しているのである。 |
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| 死――ボルタンスキー |
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「死」をライト・モティーフにする芸術家は、20世紀後半に限っても、アンゼルム・キーファーやフランチェスコ・クレメンテ、あるいは草間彌生など数多くいるが、美術館空間の不条理性を看破し、その認識を制作と結びつけている芸術家と言えば、クリスチャン・ボルタンスキー(Christian Boltanski 1944- )をおいてほかにいない。彼は、ホロコースト以後の地点、すなわち生命体に対する美的関心が取り返しのつかないくらい変形されてしまった地点において人間の存在を語るとしたら、それはいかにして可能なのかを探求している※6。作品の発表は、美術館やギャラリーはもちろん、学校や教会や駅など様々な空間でおこなわれるが、公共性の高い空間という点において共通する。
《シャス高校のための祭壇》《暗闇のレッスン》を見てみよう。見知らぬ他者の幼少期の写真を複写しながらピントをぼかしてゆき、シンメトリーを強調しながら祭壇画のように飾ったその作品は、本来個人的な出来事である「死(の予感)」や「幼少期」を、他者に属する記憶の集合を媒介にして表現している。ジェイムス・アンソールの描いた仮面の群像を想起するまでもなく、近代以降の人間が置かれた状況は、個的であるにも関わらず匿名的でなければならないという存在の不条理によって特徴づけられるが、ボルタンスキーの作品は、そのような、匿名的かつ個的な存在としての他者がかつて所持していた何でもないものを公共の空間に集積させて、私的な雰囲気を生みだし、記憶に根ざした解釈を観者(私)から引きだそうとする。公共的領域と私的領域が錯綜し、集合と個別とが混同されているその作品世界は、実際、観者の内面世界と親和的であるから、解釈行為が作動してしまうのである。
そうした作品に対して、人類学的、歴史学的、考古学的展示との類似が指摘されてきた。それが決してゆえなきことではないのは、(かつての)パリ人類学博物館にはじめて行ったおりに衝撃を受けたことを認める作家自身の発言に明らかである。博物館への導き手は、兄弟、すなわちそれぞれ言語学と社会学における新鋭の研究者であったから、衝撃の理由は、展示内容だけではなく、展示における意味生成の手法が、構造主義的な解釈から明らかとなったからだと考えてかまわない※7。そうした体験を持つからこそ彼の作品は、「われわれは個人の死の後にその人の所有物から何を学べるか」を問うと同時に、「美術館や博物館の機能、つまりそれらが、絵画や彫刻と既に死んでしまった普通の人々の日用品を、並べて保存してもいるという事実をも語っている」バランスを保てるのである。その作品が観者にもたらすであろう衝撃の契機として、美術館の不条理性と作品の意味内容との相乗効果があるのを見逃してはならない※8。
しかし、である。その相乗効果は予定調和的であり、作品が、意味内容に比しては上遜なほどに、美しく立ちあらわれてしまうのも事実なのだ。そこに破綻が生じる余地はない。そして破綻のないところでは、「距離」はあったとしてもすぐさま馴致されてしまうから、それが永続することはない。たとえ永続しているように見えたとしてもそれは、ホワイト・キューブの空間における不条理性が許す仮設的状況でしかないだろう。だとすれば、いかにして私たちは「あのたしかな距離」を回復させればよいのだろうか。 |
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| 図1:小林正人 Unnamed #9 1997 宮城県美術館、 2000 |
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| 生――小林正人 |
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この問いに対して答えるために、ここで想像力を転回させてみよう。180度翻って、美術(館)は「生」を扱えるのだろうか、と問うてみるのだ。
だが、単に作品を生むだけではなく、作品が生そのものになること、つまり生き続けることなど、ほとんど上可能である。いくら美術作品の制作が創造行為に比せられるとはいえ、この世界では、いかなる存在物も有限の運命にあるからだ。それでもなお「存在する」ことによる限定からの自由を望むのであれば、作品を、非存在と存在の間ともいうべき位相に布置しなければならない。作品が存在の誕生そのものであるとすれば、それはいかなる空間の中でも、生まれ続け、生き続けるはずであろう。「作品を生む」のではなくて「作品が生まれる」必要がある。
そのためには、所与の物質に人為を施すという従来の制作論から脱却した、新たな方法論に依拠しなければならない。ほとんど上可能と思えるそうした方法論の探求を、厭うべき負荷でなく、必然の代償と考えている者の一人に、小林正人(1959- )がいる。彼は言う、「抽象画とか具象画とかいうのではなく、絵画をものとして抽象に存在させたい。言いかえれば、存在することで少しも失墜していない絵画」※9。
小林は、存在していることが絵画を失墜させないために、キャンバスを木枠に張りながら、まさにからだ全体を使って描いてゆく。「木枠を組んで完成したキャンバスの”上”に描いていたら、どうしても一層多くなる」からだ。そして光よりももう少しきれいな、つまりより純粋な「明るさ」を獲得しようとする
※10。光に対して明るさが語られるのであれば、その関係は美学上の概念における、現実態としての形相に対する可能態としての質料のそれに等しい。したがって、明るさを獲得しつつ絵画を存在させるとは、言いかえれば、可能態としての明るさに現実態を与えることなく、現実態たる絵画として存在させるということである。それが上可能であるのはもはや言うまでもない。
だが、上可能に思えるのは、いまだわれわれが、形相質料論に拘泥しているからではないか。小林が「絵画をものとして抽象に存在させたい」と言っていたことを今一度想起しよう――それは、アリストテレスであれば「純粋現実態actus purus」と呼ぶであろう絵画である。ならば小林の言う「明るさ」とは、光に対する質料としてのそれではなく、まさにこの「純粋現実態」のメタファーではないか。小林は、明るさを絵画のうちに描こうとしているのではなく、明るさとしての絵画を成立させようとしているのだ。
そして2000年、宮城県美術館で開催された回顧展の最後の部屋に足を踏み入れた者は、そうした絵画の存在を信じてみたくなったことだろう。床のクロスがすべてはがされ一面グレーに塗られていたのは、空間をホワイト・キューブに近づけるためだろうが、その空間の奥に、絵画が、藁の上にあったのである(図1)。この藁は、たとえ小林がクリスチャンであるという事実を知らなかったとしても、幼子イエスの誕生した馬小屋を容易に想起させる。実際、これより少し前に小林は、かつて厩舎であった場所に寝泊まりをしながら絵画を制作し、そこでほとんどインスタレーションとでも言うべき作品を発表してもいたし(図2)、そもそもアリストテレスにおける「純粋現実態」とは、ほかならぬ神のことだから、藁には、そこにある絵画と神のアナロジーを観者に伝える機能が授けられていると考えてかまわない。藁は、「明るさとしての絵画」が生まれていると告げているのだ。 |
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| 図2:小林正人 Unnamed #15 1999 Serendipiteit展 ベルギー、ワトー 1999 |
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| 生まれてくる存在の叫びと美術館 |
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しかし、絵画が生まれているのを告げるのは、藁だけではない。その作品が「Unnamed」と題されているが、広く用いられている「Untitled」ではなく「Unnamed」なのはなぜなのか。
世界の最初の七日間のエピソードを思い起こすまでもなく、前者が前提とするのは「タイトル」という習慣的制度であるのに対し、後者は存在論に関わる「名前」という概念を前提としている。したがって、ある存在が「Unnamed」と名づけられているのだとすれば、命名者はその存在を、もはや「名づけえぬもの」として認識していることを意味している。矛盾が生じるとしても、この世界の存在論ではおよそ説明のできない存在がそこで生まれている以上、そうするしかないのである。
ところでこの場合、「そこ」とは仮設的なホワイト・キューブの空間であったが、おそらく小林は、「明るさとしての絵画」を求める者のみが持てる直観で、そうした存在は、時間軸のない空間においてこそ自らの誕生をより強く告げることができると考えたのだろう。いかにも美術館的な空間を設定することで、存在の異質性が強調されるのだ。
そしてこの異質性の容認こそ、「距離」の回復を模索してきたわれわれが見習うべき態度である。死が上可知であるのは言うまでもないが、これまで美術におけるイメージのシステムは、上可知のものを、表象representationという行為によって可視化することで、いわば名づけてきた。死と美術とが親近性を持つと言われる所以である。美術は、上可知のもの(死)を、(かりそめにであっても)可知のものとし、われわれが生きる世界に回収し、生を確保してきたのだ。けれどそのシステムは、上可知のものが持っていたはずの「距離」をなくしてしまうことでもあったから、皮肉なことに、感性的体験の契機は失われてしまう結果にもなってしまった。そして作品の生死の判断が上可能となり、それを収める美術館は墓所と呼ばれることとなる。
しかしわれわれは、「明るさとしての絵画」が生まれつつあることを知ってもいる。小林のケースから、存在に生を与える名づけの行為は、表象のシステムにおいてではなく、「名づけえぬもの」さえをも名づけようとする、分け隔てない愛において、その可能性を保証されるのだということを導き出してもよいだろう。たとえその存在が、われわれが生きる空間に対して異質であっても、それを「距離」として容認する愛が求められているのだ。今、代償を恐れることなく、「死よりも生を」と、「もっと明るさを」と叫べないかぎり、美術館が蘇生することはない。 |
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※1: 古橋悌二、『メモランダム 古橋悌二』、リトル・モア、2000年、41頁。
※2: Nicholas Serota, Experience or Interpretation -The Dilemma of Museums of Modern Art, London and N.Y.: Thames and Hudson, 1997, p.17.
※3: 美術作品を必要としない感性的体験ももちろんありえるし、それは当然美術館の外部で(も)可能となる。ästhetischを、「美的」ではなく「感性的」に読みかえる(読み戻す)必要性は、ヴォルフガング・ヴェルシュ、『美的リアリティの変容』(小林信之訳)、勁草書房、1999年に従う。
※4: テオドール・W・アドルノ、『プリズメン――文化批判と社会』(渡辺祐邦・三原弟平訳)、ちくま学芸文庫、1996年、265頁。
※5: Martin Jay, Downcast Eyes -The Denigration of Vision in Twentieth-century French Thought. Berkeley: University of California Press, 1994; Norris Kelly Smith, Here I Stand -Perspective from Another Point of View-, N.Y.: Columbia University Press, 1994; Hubert Damisch, The Origin of Perspective, trans. by John Goodman, Cambridge, Mass.: MIT Press, 1995.
※6: テリー・イーグルトン、「アウシュヴィッツ以後の芸術――テオドール・アドルノ」『美のイデオロギー』(鈴木聡他訳)に所収、紀伊国屋書店、1996年、469-503頁。またボルタンスキーをはじめ、ホロコースト以降の芸術における記憶の問題については、Ernst van Alphen, Caught by History: Holocaust Effects in Contemporary Art, Literature, and Theory, Stanford: Stanford University Press, 1997を参照。
※7: Lynn Gumpert, “The Life and Death of Christian Boltanski,” in: Christian Boltanski: Lessons of Darkness, [exhibi. cat.] Museum of Contemporary Art, Chicago [et. al.], 1988-9, p.53.
※8: ibid., p.56. 社会学者である兄リュックは、ブルデューにごく近いところで研究を進めていた。美術館における作品享受は、実際には階級を自他に証明するためになされているというブルデューの研究が、兄弟の会話のうちに、「あの確かな距離」が消滅している事実の確認として言及されていた可能性がないとは言えない。
※9: 小林正人、「純粋絵画の高さで。」『アクリラート』vol.22、1994年、1頁。
※10: 光と明るさをめぐる未発表の覚書は、本江邦夫、「小林正人――明るさについて」『第23回サンパウロビエンナーレ 小林正人 カタログ』、国際交流基金、1996年、no pagedに収められている。 |
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| 初出:『美術フォーラム21 第8号 特集 <生と死>と美術』 醍醐書房刊 2003年6月 103-107頁 |
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| (ほさか・けんじろう 東京国立近代美術館研究員) |
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