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1938 東京都に生まれる
神奈川県在住
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中平卓馬の肖像
小原真史 (こはら・まさし)
1
中平卓馬とは誰か?「ブレ・ボケ」の写真家。同人誌『PROVOKE』の一員。映像評論家、批評家、政治的活動家、過剰な言葉をもった写真家、記憶喪失の写真家、言葉を失った写真家、伝説の写真家…。先鋭的な言葉と写真によって後進の写真家に少なからぬ影響を与えてきた中平卓馬は77年突然の病に倒れ、それ以降「伝説の写真家」として畏れられ、馴致されてきた。
1963年に新左翼系雑誌の編集者になった中平は、そこで東松照明と知り合い、その出会いをきっかけに自らも写真家に転身した。東松を介して森山大道と親しくなった中平は森山から撮影と現像の手ほどきをうけ、急速に写真にのめり込んでいくことになる。1968年には多木浩二、岡田隆彦、高梨豊と共に同人誌『PROVOKE』を創刊(二号から中平に誘われた森山が参加)し、既にある意味の図解から写真を解放することで、「来たるべき言葉」(思想)を挑発するという宣言を共同で提出している。その頃高度経済成長のまっただ中にあった日本ではあらゆる分野で既成の制度や価値観への不信が叫ばれ、社会変革を求める運動が隆盛を迎えていた。それまでの社会的リアリズム写真が二項対立的な疎外論図式に立脚していたのに対し、そのような「たしからしさの世界」への疑義をアジテートした彼らは、「何を撮るか」「いかに撮るか」ではなく、「写真とは何か」「写真家とは誰か」「見るとはどういうことか」という根源的な問いを発していった。彼らの写真に特徴的な荒れた粒子とブレてボケた不鮮明な映像は、自閉的美学や言葉のイラストレーションに収束してゆく写真に対しての写真による不信の表明であり、世界の輪郭が曖昧に崩壊していく時代状況に正確に呼応していた。広角レンズやノーファインダーの多用による撮影は撮影者たる写真家が主体的に「写す」のではなく、むしろ「写ってしまう」というカメラの受動性を積極的に受容するものであり、「表現」の名において隠蔽されてきたカメラの野蛮(他者性)を復権する試みであった。彼らは自らの眼と機械の眼とのズレという不利を積極的に自らの写真に反映させることによって、逃れ去る世界の影を捕捉しようと模索していた。
『PROVOKE』がわずか一年半という短い活動期間を終える中、中平は光が氾濫する夜の都市で言葉から逸脱するものを採取し続け、1970年に写真集『来たるべき言葉のために』を上梓した。言葉や意識から逃れ去る「裸の世界」を捕捉したいという切迫感に駆られた映像は、それを見る個々人の中に「ある直立する言葉(来たるべき言葉)」を発見させる匿名の媒介となるはずであった。しかし、その数年後「なぜ、植物図鑑か」という文中でその写真集は中平自身によって全否定されてしまう。そこに収録された詩的なモノクロ写真は、中平が希求した不確定のコミュニケーションに開かれるのではなく、自らの私的な像(イメージ)によって「世界を枠取りし、それを見るものに押しつける」結果に終わったのだと。そして、本来写真の撮影とは「事物と思考と私との共同作業」によってなされるものであるがゆえに、世界と直接出会い、事物を事物として語らせるために「事物の思考、事物の視線を組織化」しなければならないのだと、その饒舌を回転させていった先に、中平は「来たるべき」写真の輪郭として、手の痕跡を排したカラー写真を提示する。あらゆる陰影や情緒を斥け、「当の対象を明快に指示することをその最大の機能とする」図鑑のような写真の並置を自らの方法とすること。自らの意識の中にア・プリオリに確保された意味や像(イメージ)を廃棄し、事物から発せられた光を自動筆記的に捉える写真装置の原点に立ち返ることを宣言した中平はそれまで撮りためたプリントとネガの大部分を焼却してしまう。中平にとって恐怖であり、「奇怪な生き物」であるという「植物」とは「たしからしさの世界」から解き放たれた事物の他者性を胚胎する、その沈黙において自我を脅かすような彼方の事物であり、「植物」が自生するそこは知覚主体からも知覚客体からも逸脱するような狭間の地帯を意味した。
写真行為における「私」の不断の革命を試みた中平は先行する言葉を必死に追走していたが、70年代中頃には自らが書いた「なぜ、植物図鑑か」というエッセイが自身を金縛りにしていると漏らしており、写真家としては深刻なスランプに陥っていた。自意識の球体を破砕するという絶望的な困難の中で「にもかかわらず、意識する」とは意識の牢獄を乗り越えることを意識する意識という袋小路に陥るのであるから、「植物図鑑」とはあらかじめ座礁を約束された航海に出航するに等しかった。その頃には制度化した視覚を亀裂させるラディカリズムであったはずの中平達の写真が「ブレボケ」として認知され、名を与えられたことにより、初発の衝撃力を失効させていた。様々なメディアでベトナム戦争やパレスチナ解放闘争が伝えられる中、世界を直接的に変革する力を持ち得ない写真、不可視なるものへの無力、ファインダーをのぞく「私」こそが権力として立ち上がってくることへの苛立ちは中平のシャッターを押す手を重くさせていた。この頃の中平は写真家の限界に立ち会いながら、焦燥にかられたかのように写真とは何かを語り、文章を書きつけることで再び写真家に回帰しようと模索していたが、1977年に急性アルコール中毒で倒れ、記憶の大部分と武器であった言葉の回転を喪失した。
2
8月1日 午前6時31分、私、目覚めた。私、トイレへ行き、TELで少し進行し過ぎている時計的確化し、6時53分もどった。それ以後、全く眠れず、私6時31分近く覚醒。
(写真集『新たなる凝視』所収「写真日記」より一部抜粋)
中平の「写真日記」にある時報の時間と腕時計の針を適宜合わせることや、自分の行動を逐一記す行為は忘却の深淵が絶えず顔を覗かせる事態に抗するものであり、この頃の中平は日記や写真という外部の痕跡によって接続すべき過去を待機させておかねばならなかった。『新たなる凝視』(1983年)にはそのような病から立ち直る過程で撮りためられた数年間の写真が収録されており、郊外であればどこでも目にする様な、日常の些事が写し込まれているといっていいだろう。とりたてて特別なことが起こっているわけではないが、その光景はどこかしら不穏で「犯行現場」のように見える。おそらく読み取り不能な空虚こそが観者を不安に導くのだ。意味への自然な回路を絶たれ、世界を文節化するコードが薄弱なそれらの写真は幼児のように何かを指差すだけだ。この頃の中平の写真から誘発される不安の感情は写真というメディアそのものが呼び起こす根源的効果であり、そこには写真それ自体の野蛮が露呈してしまっている。写真は自ら何らかの意味を放つことはない「コードのないメッセージで」あるがゆえに、その外側に読み取りの為の手がかり(標題)を要求するのだ。『新たなる凝視』という名の写真集に写り込んでいる事物は奇妙に触覚的な存在感を付与されており、そこには我々が安住している世界のオルタナティブな様相が焼き付けられている。それは世界の死相の複写(=デスマスク)のように見える。親しかった人の死に顔を忠実に伝える直接的刻印であるにも関わらず、奇妙に疎遠で「無気味なもの」としてのデスマスク…。フロイトが「無気味なもの」と呼んだのはかつて慣れ親しんでいた対象が、意識から排除された後、見知らぬ、馴染みのない物として回帰することによって、主体を動揺させるような経験のことである。日用品や家族の名前さえ忘れるような状態で目にする光景とはいかなるものだろうか。親和的相貌を剥奪された用途不明の塊が人間の引いたか弱い目印の線をすり抜け、殺到し、光の洪水の中、もつれ合うような世界…。いずれにしてもそれは視覚的理解ではなく触覚的接触の世界であり、世界を構成する事物を主体的意志の支配下におこうとする試みが挫折する事態だ。「たしからしさの世界」が崩壊した時、世界はそれそのものが孕む根源的な暴力性と無根拠性を露呈させる。写真集のあとがきには「素朴な、またある意味では基本的撮影行為そのものが 逆に対象を明白に捉えることになる、と信じ撮影し抜いた」とあるが、自意識が難破した場所で新たに眼にしてしまった世界の唯物論的残酷さを「基本的撮影行為」で捉えることによって、中平は写真装置それ自体に肉薄していったのだ。「無気味なもの」が無秩序にひしめく世界に「嘔吐」しながらも、そこにレンズを通した凝視を決意することによって中平は写真家に舞い戻ったのだ。カメラは目の前のそれが分からないものであることをそのままに受け入れる「反解釈」の装置として、あらゆる細部を見境なく受容する反記憶喪失の装置として、中平の三番目の眼となる。言葉という世界の濾過装置を失調させた中平はカメラという光の採取装置とともに、断たれた世界との絆を取り戻す旅に出発したのだ。「私の写真は ほとんどすべてを忘却してしまった 私自身の 止むを得ぬ行為だ」という中平は「写真」(見ること、撮ること、また見ること)と生きることとが同義であるような地平に身をおく事になった。
3
写真は創造ではなく、記憶でもなく、ドキュメントであると、私は考える。撮影行為とは、抽象的なことではなく、常に具体的だ。単純なことを観念化して難しいものにしようとするのではなく、カメラという媒体を通して私が出会った現実がここにある。
(「原点復帰ー横浜」展カタログより 2003年)
近年中平はモノクロからカラーに完全に移行し、病後20年以上日記を付けるように撮影行為を持続してきた。来た道が不明になり、信号さえ渡れないという退院直後の状況の中、撮影の為の外出は荒波に漕ぎ出す航海に等しかったが、横浜の自宅脇を流れる一本の川は可視的な経(緯)線であり、上流に向かい左岸に見える赤と白の塔は自らの位置を確かめる灯台であった。中平の撮影行為は白地図に引かれた一本の線(川)と自宅(heim)を起点に地図を作りあげていく過程のようであり、外界に溢れる「無気味なもの」を「故郷的な(heimlich)もの」に変容させていく作業のように見える。そして、そこでは自分の周りに親密なものを集めていく身振りと、自らを脅かすものへと踏み出すこととが同居している。中平は自宅周辺や、以前住んでいた街を20年以上くまなく回る中で、出会う度に何度も同じ対象を同じ場所で撮影している。それは自分のつけた足跡を偶然その上から踏んでしまうような経験であり、中平にとって世界は日々、処女地のように新たに、別の顔で、出現するのだ。そして、それはただ一度、繰り返し一度だけ、〈いま・ここ〉において見出される。
世界を顔として感受すること。それは対象の擬人化ということではなく、我々が人間の顔を解すように直接的に遭遇するということだ。意味や形容に置換できない、媒介を欠いた直接的な表面が顔である。中平の近作は硬直した言語による一般化、同一化の磁力に抗し、世界を「この」という顔において指差す表層としてある。世界をある抽象性の中に監禁してしまうのではなく、見えてあるものをその具体性において解放すること。抽象性の中に喪われたものを具体の視線において蘇生すること。それは残酷なまでに過剰な顕在性だ。例えば、あの蛇とこの蛇は「この」性(柄谷行人)において違うのであって、中平の近作が指示するものは一般名詞に所属しようのないたんに「この蛇」だ。さらにいえば、あの時、この場所で出会ったこの蛇と、この時この場所で出会ったこの蛇とは同じではなく、全てはそのつど唯一無二な物として見出される。機械の眼であるカメラはそのような微細な表情を「写真の顔」として固定するのだ。しかし、より正確にいえば「この」ではなく、「他ならぬこの」であるだろう。「他ならぬこの」とは「他でもあったかもしれない」という可能性を孕みつつ、にも関わらずこれでしかないという偶然性そのものだ。つまりそれは「あらゆる他なるものを内に孕んだ他ならぬこの」という多層性としてあるのであって、あらゆる偶然性が潜在するような顕在性なのだ。そしてそれは「他ならぬ私」が名指す限りにおいて存在する。
4
あれだ!これだ! 私が、ここで外化したのは 現時点での一つの写真結論だ!
(「なぜ、他ならぬ人間=動物図鑑か?」展より SHUGOARTS,Tokyo 2004年)
この猫、この木、この鳥、この塔、この火、この人の図鑑。それは中平が私的に立ち会い、生きるただ中でもたらされた現実であり、意味として立ち現れてきたものに違いない。近作に現れる「図鑑」とは一般化不能な「この性」(this-ness)の世界であるがゆえに、異なるものを一対一の対応関係で結ぶことで概念化し、整序するような図鑑からの逸脱としてある。それは意味が立ち上がると同時にその意味が虚無に吸い込まれていくようなパラドキシカルな表層であり、「これはこれである」という同語反復に陥ってしまうような、言語の内部であると同時に外部であるような場所だ。抽象的な概念の明朗さの下に安息しようとする表象を食い破り、露呈する「他ならぬこの」の相貌は決定的に偶然的なるものの肯定からもたらされる。それは〈できごと〉の図鑑であり、かつて中平が希求した「植物図鑑」の中に可能性として存在していたはずだ。体系性や統一性を欠きながらなしくずし的に増殖していくプロセスとしてのみある図鑑は「他の誰かであったかもしれない他ならぬ私」のドキュメントであり、一人の写真家の「生の記録」そのものである。「他ならぬ私」が選びとった現実を「他ならぬ別の誰か」の現実に接続すること。匿名の媒介と化した「第二の現実」(写真)を見る者の現実に投げ返し、その言葉と生を挑発すること。かつて中平はそこで生起する〈できごと〉を「来たるべき言葉」と呼んだ。我々は中平の写真に何を見、いかなる現実を選びとるのか?
【参考文献】 中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』晶文社、1971年
柄谷行人『探究U』講談社、1989年
初出:『カメラオーストリア』 2005年91号 9-20頁
(こはら・まさし)
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