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| 「島袋道浩 言葉でもって立ち上げること」 |
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| 光田由里 (みつだ・ゆり 美術館員) |
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3月20日の夕刻、画廊のガラス扉を覗くと、島袋道浩のスライドトークはもう始まっていた。白い壁面で囲った一室に入る前に、まず画廊主の佐谷周吾氏のこぼれるような笑顔に迎えられる。そのあまりにフレッシュでチャーミングな笑みに思わずみとれながら、会費を払い、透明なティーカップに入った中国茶とオニギリを受け取る。そう、この展覧会のサブタイトルは「明日のために美術家と画廊が一緒にできること」と命名されていたのであった。二人はもうすでに、なにかとてもポジティブなことを一緒に始め、手応えを感じているに違いないと、その笑顔でわかった。この日、米英軍のイラク爆撃が開始され、胸が塞がっていた私だが、いい予感がした。
花を閉じ込めて編み込んだ香り高いお茶で手をあたためながら中に入ると、照明の落ちた一角には細いベンチが並び、20人ほどの人たちが掛けていた。作家はスニーカーをはいて前方右端に立ち、昨年の夏にチロルで開かれた彼の個展《空が海だったとき》について語り始めていた。柔らかい声と少し伸び上がるような抑揚。アルプスにほど近いチロルの山あいの村から、個展開催の招待を受けて、彼はその地を訪れた。標高の高い、緑の斜面を歩きつつ、島袋はそこを少し掘ると貝の化石が出てくるのだ、と聞いたという。「チロルの山は、何万年も前には海だったのだから」、彼は思いつく、「ここで魚の凧を飛ばそう。海が空になるのもいい。」と。
そこで彼はドローイングを描いた。緑の山の間に、色とりどりの魚の形の凧が、凧糸を交差させつつあちこちを飛ぶ、とても楽しい、童画風のスケッチである。「これが描けるまではちょっと悩んだけど、描けた時に、展覧会は半分はできたと思う。これを見せると、見た人はそうか、とにやっと笑って受け止め、ぼくのやりたいことが伝わる。あとは、実現に向けて準備が進んでいく。絵ってそういうものだと思う。」と作家は話す。
彼の話は、作品を説明するというのではなく、どんなことをしたいのか、アーティストとしての自分はなぜこのように行為するのかを、具体的な作品の現れの外側からも集めて、ライブに語り起すような方法である。
色とりどりの凧の魚たちは、島袋が昨年中国に滞在した時に見つけていた。彼が最も気に入ったのは、もちろん蛸の形をした凧だった。「蛸の凧」にシャレを感じるのは日本人だけではあるが、島袋にとって、蛸は特別な存在である。この奇妙な姿の生き物は、彼の出身地・明石の名物でもある同郷人?で、ユーモアを抱えた得体のしれない態度のままに、彼の作品に何度も協力してきた。
ビデオが写しだしたのは、澄んだ陽光の満ちた高地の牧草地の空を、たどたどしく横切る小さめの凧たちである。よおく見ると、確かに魚らしい形をしている。村のおとうさん、おかあさん、おじいちゃん、おばあちゃん、子供たちが参加したというこの日、凧糸があちこちに向いた空と、風の音に混じる遠い声が保存されていた。
チロルの島袋個展のオープニングイベントが、魚のたこあげだったわけだが、それはこの展覧会の主要ボディそのものでもあった。開催中の個展、《川のながれを見ながら》でも、たこあげはやはり主要な柱のひとつになる。シュウゴアーツの壁のすぐ外を流れる隅田川の河畔で、オープニングを含む、2回のたこあげが行われ、ビデオが会場で放映されている。ここでも蛸の凧は大活躍だった。だから《空が海だったとき》について作家が語ることは、今回の個展について語り起すことでもあった。島袋は、「お父さんの笑顔を作りたかった」と言い、満員電車のいやな雰囲気や東京の暗いムードに触れて、「たこあげをして笑うお父さんの笑顔があれば、子供たちももっといい笑顔になる」はずだから、街の空気を変える具体策として、たこあげを東京でしたいと思ったという。
さて、もうひとつの柱は、そこにあるビール缶をのせたジェラルミンのカヌーがしてきた、ひと仕事である。協賛者としてオープニングのビールを提供してくれることになったアサヒビール本社のモニュメンタルなビルは、やはり隅田川沿いにある。このカヌーは作家と画廊主をのせて隅田川に漕ぎだし、画廊とアサヒビール本社間を、往復したのであった。ビデオは重く曇った空の下、二人がカヌーを下げて川に降りるところから始まり、ボートと行き会ったり、岸辺に手を振る間に、雨が降りだし、強く降り始め、大きな橋をいくつもくぐるうちに土砂降りとなる様子を、ややホームビデオ風ののんびりした編集で記録する。雨がっぱから滴を散らしながら大荒れの天候のなか、少し悲壮だがそれでものんきさを保ちつつ、オールを漕ぐ二人は、無事アサヒビール本社に着いて、缶ビール5ケースを受け取り、関係者と握手を交わす。それを大事に積み込んで、また雨を突いて漕ぎだす二人の、大変御苦労様な姿は、あっぱれであった。
「これは、“もらい方”の展覧会なんです。」と彼が言うには、2000年に“贈り物”をテーマにした東京での展覧会に参加した時、観る人たちから「ありがとう」の反応がなかったことが気になり、“もらい方”を考えるきっかけになったとのことだ。この度の島袋とシュウゴアーツが一緒になっての“もらい方”は、確かに力がこもっていた。無償の、又は無為の労働でもって返礼する、という、珍しい方法により。
ちょっとした遊びのような、あるいは現実離れした詩のように見えかねない彼の作品が、島袋が出会ってきた現実の諸相ひとつひとつに対する、具体的で丁寧な反応から発していることが、無理なく伝わってくる。彼の作品が、プロジェクト自体もドローイングもことさらに、どことなく脱力した愉快な感じなのも、恐らくは繊細な意図があってこそなのだ。彼はアジテートしたくないに違いない。我々にとって、アジテートよりずっと有力な語り方がある。それが島袋にとっての美術ということになるだろう。
島袋の話は、「冒険と美術」に移る。彼にとって「冒険と美術」はとても似ており、自分の制作活動に大きな影響を与えるのは、他のアーティストであるよりも、冒険家だとも言う。彼は冒険も美術も、「未だ知らないところへ行こうとする」、衝動のようなものの現れと考えるからだ。冒険も美術も、社会の中で生活を立てていく職業としては成り立ちがたい仕事でもある。美術作家としての島袋は、あらゆる実験が終わった後の時代に、自分は作家としての制作を出発させなくてはならない、という自覚があり、世界に未踏峰が全くなくなってしまった後にも登山を続ける登山家たちと、よく似た状況なのではないかと考えている。
一番身近に感じている冒険家として、彼は植村直巳の肖像を掲げる。酸素ボンベをつけて着膨れした、エベレスト登頂の時の写真である。「世界五大陸の最高峰に、ひとりで登った人です。」と彼を紹介した島袋が示した次のスライドには、ぐい飲みのセットが箱とともに写っていて、「植村さんの結婚式で配った引き出物の写真です。このぐい飲みには、五大陸の頂上の石がそれぞれ砕いて入れてあるんだそうです。これはもらったらうれしいでしょう。ぼくにはこれは作品だと思えて、自分も作るときこれに負けないような作品にしようと思うんです。」と語った。
植村は地の果てに旅しても、ごく「小さなものを持って帰るひと」だという。最高峰の頂上の石ころとか、北極で自分のテントを襲った白熊の爪のような。(これはペンダントに加工して妻に贈ったとのこと。それも素敵である。)冒険とは、「物が残らないものだ」、と島袋はこれらを見て感じ、「物が残らない」ところも自分の美術に似ている、と考えている。確かに彼の作品は、愛玩の対象になるような物を作り出さない仕事である。
植村に学びたいと彼が思うのはそればかりではない。無償の行為である冒険と、スポンサーの関係にも注目している。植村がアルバイトをして資金を作り、独立独歩でライフサイズの冒険をしていた初期に比べて、広告代理店がスポンサーに就き、大掛かりになった後期の冒険には、無理や矛盾が生まれてしまって、仕事の質としてはかえって低まってしまったのではないか、という説を参照してみせる。最も現実的な経済面との折り合いは、最も詩に近い行為を現に実現させ、実現し続けるために、実は不可欠なことのなのである。決して夢見がちな文学青年タイプではなく、かなり地に足のついた強靱さと、自在さを合せ持ったこの作家は、自覚的に先人に学ぶことで、その問題もコントロールすることだろうと思われた。
話の途中、島袋は熱いお茶のお替りとオニギリのお替りまで勧めてくれた。夕刻の空腹時におにぎりはおいしい。食べる喜びと見て聞く喜びがサービスされて、うれしい。
冒険の準備としては、資金だけではなくトレーニングも必要になる。自分が行く場所に住んでいる人の生活をまねするのが、最も合理的だ、というのが植村の持論だそうだ。彼は北極点到達のための練習として、エスキモーの家に住み生活様式を学んだ。また、南極点を歩くための練習として、同じくらいの歩行距離が目安になるため、日本列島の縦断歩行も行ったという。危険な冒険を重ねた植村だが、練習で歩いた日本で、雪や氷は怖くなくても、人が怖い、という感想を持ったそうだ。「この練習、というのがいいなと思って」島袋も日本を縦断する作品を始める。それが《シマブクロ・シマフクロウ》1996である。
この作品は、わたしにとっては作家・島袋を初めて知った機会だった。彼は自分の名前にそっくりな、「シマフクロウ」なる北海道にだけ棲むという稀少な鳥に会うため、鹿児島から北海道へヒッチハイクで北上する。その旅で多くの未知の人たちと出会った末、ついにシマフクロウの姿を見ることができた。この旅のいくつかのトピックスが水彩画や写真で語られた展覧会がこの作品で、ファンタジーをドキュメンテーションしているような、不思議な印象だった。
けれど、この作品の動機に、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があったとは知らなかった。それは96年の1、2月に立て続けに起きて忘れ難い混乱と恐怖を日本中に刻印したのだったが、島袋は「あの後、いつ何があるかわからない、知らない人が怖い、というような妙な雰囲気がちょっとあった。それでぼくは、そんなことはない、知らない人を信用してみよう、という気持ちになってこの作品を始めた。」という。ユースホステルで知りあった旅のジャグラーがヒッチハイクのベテランだったので、島袋は彼からヒッチハイクのコツを教わった。それは「身なりを小奇麗にすること。不潔はいけない。笑顔を忘れないこと。あんまり長い距離を最初から要求しないこと。適当な距離がお互いのためにいい。それから車が止まってくれると信じること。」だった。
これらの教えを守りつつ、小さな手書きのプラカードに「広島」などと行き先を書いて道路端に立つ雄姿。自動シャッターで撮影した記録写真である。80人あまりにのぼる、多くの人たちが彼を乗せてくれ、「ぼくの名前は島袋です。北海道にいるシマフクロウに会いに行くために旅をすることにしたんです・・・・」という彼の物語を聞いた。「あの事件の後だったにもかかわらず、ヒッチハイクのために止まってくれる人は、やっぱり面白い人たちだった」と、島袋は彼らを次々にスライドの写真で紹介してくれる。「俺は誰でも乗せるよ、たとえ脱獄囚だとわかっていても、乗せる」と語ったおじさん。トラックに乗った名古屋の人は、彼の話を気に入って、デパートの食堂でごちそうした後、自宅にも泊めてくれたという。翌朝奥さんから、「昨日はとても楽しかったそうでありがとうございます。これからもよろしくお願いします」とあいさつしてもらったときは驚いた。その後も交際していたのに、その人は昨年事故で亡くなってしまったんですと彼は語る。
これから金沢に行くつもりだ、と車中で話したら、じゃあ、と自分の予定を変更して用もないのに一緒に金沢に行ってくれたという若い男性。職務上、顔が写るわけにもいかなくて、後ろ姿でVサインを見せ、カメラに収まったタクシー運転手。会社から厳しく禁じられているのに、なぜか乗せてくれたトラック運転手は、運悪く島袋が同乗したことが上司にわかってしまい、もうクビだと叱られてしまった。その後どうなったのか。自家用の観光バスを持ってフリーで仕事をしているバスオーナーもいた。ヒッチハイクにバスが止まったのには、さすがの島袋も驚いたという。
「あるべき現実を思い浮かべることが大切なんや」とこうした過程で作家が思ったのには、「イメージに現実がついてくる」ことに気づいたからだという。止まってくれるのは1台でいい、それをイメージ出来たときに現実も開けていく。一台でいい、ひとりでいい、そういうコミュニケーションの仕方が、美術と似ていると彼は感じている。美術は大量生産/薄利多売、のようなシステムとは違うところにある、と。
ついにやってきた北海道でも、地上に100羽ほどしかいないと言われているシマフクロウには、そう簡単には会えない。しかし出会ったひとたちのもつそれぞれのつながりが、島袋をシマフクロウ博士と呼ばれる、重要人物とコンタクトさせてくれる。家族と森に住んでシマフクロウを研究している博士は、幸いにも彼と会うことを承諾し、重要なスポットに同行してくれた。そして本当に運良くこの鳥の姿が見えたとき、もう写真に撮らなくてもいい、そう思えたということである。
そう楽な旅だったはずもないと思うのだが、行きずりに出会ったひとたちの表情や言葉は、島袋が語り直すことで切ないほど生き生きと伝わってきた。それは7年前に画廊で見たときの、展示作品の印象とは違っている。語るという方法は、会って、顔を見て、そこに場と時間を共有して成り立つ、メディア時代にはとてもぜいたくなコミュニケーションの方法である。《シマブクロ・シマフクロウ》では、彼が未知の、だけれども何かの必然によって出会ったひとたちに、語り続けたことが背骨になっている。だからその作品の再生には、もう一度語り直す、という今回の方法がとてもぴったりしているのだろう。語るという行為は、彼の美術にとってとても大きな要素なのだと改めて気づいた。
さて、《川の流れを見ながら》展のDMには、作家のメモが印刷されている。
「生きている人間がやっていることへの回復」「実験と提案、練習」といった言葉がブルーブラックのインクで走り書きしてある。これを改めて見ながら、自分にも何か回復すべきものがある、そのために練習したい、という感想をもった。彼の展覧会は、そう勧めるでもなく誘発してくれる、弓なりに投げられたボールのようである。島袋は“もらい方”の展覧会なのだと言っていたが、やはりスライドトークは贈り物のようだった。だからわたしも“もらい方”の練習のために、多くの遺漏があるものの、この感想メモを書いてみることにしたのである。
島袋がチロルの展覧会に出品した作品の、一枚のスライドについて最後に書いてみたい。それは、二羽の鴨らしき鳥が、茎の両端をくわえて羽ばたき、茎の中央に必死に食いついている一匹のかえるを空に連れていこうとしている童画である。島袋はこの図を、中国のお菓子カードに見つけて、チロルの展覧会場の壁一面に描き起したという。空を飛んでみたいと切望していたかえるが、感激の言葉をもらしたために、あえなく墜落してしまうという結末は悲しいが、この絵は、彼の言う「あるべき現実」のイメージのように見えた。空を飛ぶためならと一本の茎にぶら下がるかえるも、一緒に飛ぼうとするおせっかいがかすかにまざった親切な鴨も、確かにこのアーティストの世界の住人だと思わせてくれた。
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